『私の推しは悪役令嬢。』53話の感想について紹介することに。
『私の推しは悪役令嬢。』53話の基本情報・内容
タイトル | 『私の推しは悪役令嬢。』53話 |
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サブタイトル | 革命の予兆 |
漫画 | 青乃下(@aonoesu) |
原作 | いのり。(@inori_ILTV) |
キャラクター原案 | 花ヶ田(@Lv870) |
TVアニメ公式Twitter | @wataoshi_anime |
掲載誌 | コミック百合姫2025年8月号 |
出版社 | 一迅社 |
編集部のTwitterアカウント | @yh_magazine |
発売日 | 2025年6月18日 |
ISBN | 4910137390850 |
サイズ | B5 |
『私の推しは悪役令嬢。』53話の感想
リリィ=リリウムのペルソナと影
リリィ=リリウムの形成する人格について深く掘り下げられた話に仕上がっていた。
『わた推し』53話はリリィのエピソードが特に印象的。もう一つの人格に翻弄されるリリィを見ていると、心が苦しくなる。葛藤している原因はもう一つの人格ではなく、受け入れたくない現実なのかもしれないが。
前半はリリィ。後半はクレア。ふたりが物語を牽引する両輪になっている。ふたりの対比が非常に秀逸に描かれている点が特徴的だ。
リリィは自ら犯した罪・現実に耐えられなかったのに対し、クレアは現実に正面から向き合っている。現に、クレアは炊き出しが上手くいかないばかりか、マットから心ない言葉を投げかけられていた。
作中の描写から、リリィとクレアの違いを実感することができるのではないだろうか。
リリィは罪と現実を受け入れられなかったから、もう一つの人格に罪と現実を押しつけた。客観的に見ると、リリィはもう一つの人格に乗っ取られたと捉えると思う。
リリィは自分のなかに宿る他人に負けたのではない。クレアに負けたのではない。自分に負けたのだ。リリィに宿るもう一つの人格が、リリィの精神では罪を耐えられないと吐露していた。
それを踏まえると、リリィは自分に負けたと考えるのが自然。
リリィに宿るもう一つの人格は、リリィ自身だ。
普段のリリィは社会に適合するための人格なのに対し、もう一つの人格は罪・現実に耐えるための存在。最も、リリィにとっては、認めたくない・見たくない一面だけど…
もう一つの人格がリリィに対し、綺麗な聖女のままでいるように言っていた。それを見た私は、何を言っているんだ?と感じた。なぜなら、リリィがどれだけ現実から目を背けても、多くの罪を犯した現実は消えないからだ。リリィは罪人。それが真実だ。
もう一つの人格が…いや、リリィがサーラスに尽くすたびに新たな罪を重ねることになる。
セインがリリィに対し、もう一つの人格がやったことだろうと言っていたけど、それは違う。
リリィが進んでやったことだ。もう一つの人格もリリィ=リリウムという人間を形成するもの。影といったところだ。
どちらが本当のリリィなのか。どちらも本当のリリィ。
リリィによって命を奪われた兵士の遺族に対し、リリィに宿るもう一つの人格がやったことだから許せと言って、納得するのか。
多分、納得しない。兵士の遺族はリリィによって家族を奪われたからだ。
同様のことを言われても、私は納得できない。許すことができない。
リリィに宿るもう一つの人格は、罪と現実を受け入れるだけではない。父親のサーラスに尽くす役割もある。サーラスに尽くしたいという思いを表した人格なのだと、私は解釈している。以前、リリィのもう一つの人格がセインに対し、サーラスは父親だと言っていた。表情はわからなかったけど、リリィの本心なのだろう。
普段のリリィもサーラスを慕っていた。
リリィにできることがあるとするなら、影であるもう一つの人格を受け入れることだと思う。すなわち、罪と現実を受け入れること。今のリリィがやっていることは、現実逃避だ。リリィはもう一つの人格に嫌なことを押し付け、逃げている。
もう一つの人格を受け入れなければ、リリィは思うように社会生活を送れない。サーラスを慕う一面を踏まえたら、リリィの人格は統合されるような気がする。
リリィに宿るもう一つの人格は多くの人間に宿っているのではないかと、私は考えている。普段は出てはいけないから、心の深層で眠り続けている。サーラスはそれを無理やり起こした。
リリィに宿るもう一つの人格のセリフから、元は一つの人格だったことを察することができる。別の人間というわけではないのだ。
自分の好きなところも、嫌いなところも受け入れることは想像以上に難しい。リリィにとって、苦しいことだ。だけど、リリィがもう一つの人格を受け入れなければ、本当の意味で自由になれない。
ショーウインドウのガラス・街灯・水滴・風船・鏡にもう一つの人格が映るくらいに、リリィの精神は不安定になっている。鏡にもう一つの人格が顕在化していることを踏まえると、もう一つの人格が支配的になっているのだろう。
鏡のない場所に逃げても無駄だ。もう一つの人格はリリィの心のなかにいる。ふたりは常に一緒。二つで一つ。一つは二つだ。
もう一つの人格は常にリリィを追い詰める。
鏡に自分自身の姿を映し出す演出は、多くの作品に用いられている。メリットはキャラクターの人格を色濃く表現できる点ではないだろうか。鏡に普段見たくない姿を映し出し、キャラクターの深層心理を形に表す。
解離性同一性障害に悩まされている様子を鏡で表現したアニメもある。
扉絵に描かれたピエロ姿のリリィも、リリィ=リリウムがどのような人間なのか表現されていた。物語をかき乱すトリックスターとして。リリィに宿るもう一つの人格は、常にレイをかき乱していた。
トリックスターは物語を盛り上げる存在。作中の主人公や読者に驚きを与える。料理でいうところのスパイスのようなものだ。
リリィが遊園地に逃げ込んだのは、レイが好きなことに加え、レイに助けを求めていたからだろう。遊園地はレイとリリィがデートで訪れた場所。リリィにとって、特別な場所だ。リリィの人格を形成するうえで、なくてはならないものである。
リリィは大好きなレイに助けて欲しくて仕方がない。現実から逃避し続けた結果、リリィは遊園地にたどり着いた。それがリリィをさらに追い詰めることになったけど。
リリィに宿るもう一つの人格が憤怒・嫉妬・強欲を背負うと言っていた。これらは七つの大罪を構成するもの。普段のリリィは色欲・怠惰・食欲を担うといったところか。
リリィはレイに恋し続け、現実逃避という名の怠惰を貪る。もう一つの人格を下に見る一面から、リリィは傲慢な一面があることを垣間見ることができる。
嫉妬もリリィ本人が抱く罪ではないかと、最初は感じた。だけど、もう一つの人格もリリィ自身であることを考えたら、嫉妬を背負うのも納得。もう一つの人格もレイを意識していたのではないだろうか。だからこそ、もう一つの人格はレイとクレアが仲良くしている時に出てきた。
リリィに宿るもう一つの人格はリリィを眠らせることで、リリィを救えると思っているなら、それは驕り。もう一つの人格も、傲慢な一面を持っている。
リリィ=リリウムが一体どのような人間なのか、深く掘り下げられていて、読み応え抜群だった。リリィのことを考えると、どうしても苦しくなる。自分の醜い一面を突き付けられることは、身を引き裂かれるような痛みを伴う。もう一つの人格に身を任せ、現実から逃避し続けることはすごく楽なことだ。
だけど、それはリリィのためになるのだろうか?リリィはそれで幸せなことなのだろうか?楽しさも幸せも苦しみも全部リリィのものだ。楽しさも苦しさもすべて味わえることが人間なのではないだろうか。何が幸せなのかをリリィのもう一つの人格だけが決めることじゃない。
リリィはレイを誠実だと評価していたけど、レイもズルい人間だよ。レイには、相手を想う部分もあれば、ズルい部分もある。罪も犯している。リリィが考えている以上に、レイはズルい人間だ。レイの言動は『わた推し』の評価におけるポイント。レイを受け入れられるかどうかにより、『わた推し』を読み進められるかどうかが決まってくるのではないかと、私は考えている。この辺りは上手く言えない部分もある。
運命に翻弄されたリリィは罪人だ。だけど、これだけは言える。自分自身に負けないで欲しい。リリィが戦うべき相手はクレアでもサーラスでもない。リリィ自身だ。人生とは、自分自身との戦いだったりする。どれだけクソな状況でも、どれだけ理不尽な現実の中においても、人間は戦い続けなければならない。
クレアとマットの対話
クレアはずいぶん強くなった。マットとの対話から、クレアは最初の頃に比べて大きく変化したことを実感できるのではないだろうか。
マットから罵詈雑言を浴びせられても、逃げずに正面から向き合ったクレア。それに対し、クレアや現実から逃げたマット。ふたりには、大きな差がある。
マットに炊き出しを差し入れ、救いの言葉を与えるクレアは、シンプルにカッコいい。悪役令嬢なんかじゃない。目の前で苦しんでいる人のためなら、進んで悪役令嬢になれるのだと思う。
レイがマットの相手をしたら、マットは今度こそ間違った方向に進んでしまう。マットは国を動かすだけの力を持っていない。トップに立つ器じゃない。クレアたちがどれだけ責任の重い立場にいるのか理解していない。
理解していないからこそ、クレアに捨て台詞を吐くのが関の山だったのだろう。
凝り固まった考えのままだと、物事を本当の意味で見ることができない。一方向だけで見た場面だけが真実とは限らないのだ。
作中の様子から察するに、クレアの想いはマットの心に響いたようだ。クレアの懐の大きさを感じ、敵わないと感じたのだろう。
見下されたくなかったら、マットは学校に通い続けるべきだった。苦しいかもしれないけど、それが現実に立ち向かうことではないだろうか。「平民の気持ちがわかるわけない」とクレアに言っていたマットは、他人の気持ちをまるでわかっていなかった。生きられるかどうかの瀬戸際に立たされたクレアはどんな気持ちになるか。学生運動で危険な状況に立たされた人が、一体どのような気持ちになるか。
見下されるようなことを、マット自身がおこなっていた。
世の中を良くすることは、素晴らしいこと。だけど、マットの行動は自分本位になっていなかったか疑問に感じる。誰かのためと言いつつも、結局は自分のためではなかったのかという疑問が浮かぶ。
マットがロッドやクレアのポジションに立てば、今まで享受してきた自由の9割は無くなる。マットはそれを理解していないと思う。ロッドがドッヂボールに誘ったメンバーなんて、あきらかに偏っている。マナリアを呼びたくても呼べない不自由が、ロッドにはあった。大好きな人と遊べない不自由さを、マットは受け入れられるのか。
理解していなかったからこそ、マットはレジスタンスの勧誘に魅力を感じたわけで。優秀な者という耳障りの良い言葉・自分の行動を評価してくれる人。それらはマットにとって心地の良いものだった。マットは承認欲求が強い人間だったのではないかと、私は感じた。
作品によっては、周りと比べて劣等感を感じる人間が化け物につけ込まれる様子が描かれている場合がある。「あの人なら、私のことを分かってくれるかもしれない」「ここに行けば、何かが変わるかもしれない」といった考えを抱かせる存在が最も怖いのだ。
何者かになりたいという弱みが最もつけ込まれる要素。マットを通して、何者かになりたいと感じている人間は思わぬ落とし穴に落ちる可能性があることを実感した。
クレアとのやり取りを通し、マットは母親のためにできることを始めるのかもしれない。
リリィとマットの対比を描いた話なのだと思う。苦しみを理解し、救いの手を差し伸べる人がいるかどうかの違いが明暗を分けた。セインはリリィを救おうとしたが、理解が足りなかった。クレアはマットの想いを正面から受け止め、マットを救った。
リリィとマットの対比も、『わた推し』53話に深みを与える。
最後に
現実に翻弄され、もう一人の人格に支配されたリリィ。クレアの優しさに救われたマット。『わた推し』53話は救われなかった人間と救われた人間の対比が印象に残る話だった。
鏡を活かした演出により、リリィの心理状態が表現されていたのではないだろうか。リリィが救われるためには、リリィがもう一つの人格を受け入れる必要があると思う。自分の見たくない一面を認め、罪を償うこと。それがリリィにできることだ。
バウアー王国はさらなる混沌に突入する様子も描かれていた。はたして、レイとクレアはサーラスを止めることができるのか。
物語を先取りしたい場合、『私の推しは悪役令嬢。-Revolution-』3巻を読むことをおすすめする。
コミカライズ版は原作にはない物語も用意されていて、素直に良いなと感じる。
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